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練馬大根誕生伝説

ページ番号:922-069-722

更新日:2010年2月1日

 練馬大根の伝説として、5代将軍綱吉説と篤農又六説の2つがある。明治以降、この2つの伝説は、相互に交流し加筆されて今日に至っている。

将軍綱吉説

 この伝説の初見は、「北豊島郡誌」(大正7年刊 北豊島郡農会編)であり、次のように記載している。

 往時、徳川綱吉公右馬頭(うまのかみ)たりし時、偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、卜(ぼく)せしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、病漸次癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。公病癒えて帰城するや、旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。

 とある。これが、練馬大根誕生伝説の一つである綱吉説の重要な文献になっている。しかし、この「北豊島郡誌」をさかのぼる20年前、その祖型と思われる「日本園芸会雑誌」(第80号日本蔬菜名品録、市川之雄編 明治30年発行)では、次のように記している。

 練馬大根は東京府下北豊島郡練馬村の産にして、秋大根中有数の名品なり、(略)今其起源を聞くに記録の因なるべきものなく、幾百年より栽培したものなるや確知し難しといえども、徳川将軍綱吉公の同村に別邸を建築せられたるとき、邸内の空地に大根を栽培して進献したる処、其性沢庵漬に適せる良味のものなりとの御諚ありたるより以降、同村に於て大根栽培せらるるものなり。

綱吉説の考察

1.大正7年刊の「北豊島郡誌」と明治30年刊「園芸会雑誌」に記載されているものを比べると、前者の方は修飾が多いきらいがある。「園芸会雑誌」には、「右馬頭の脚気、陰陽師の卜、種子を尾張に求め、桜台(現在の北町4丁目辺り)に栽培、大木金兵衛に培養を命じ」などの記述はない。

2.史実では、綱吉は正保3年に出生し、沢庵和尚はその前年に没している。「北豊島郡誌」に述べられているように、綱吉が僧沢庵に貯蔵法を講ぜしむることはできない。

3.当時、将軍や世子兄弟の病気や湯治、屋敷の拝領などに至るまで「徳川実記」(嘉永2年完成-初代家康から10代家治に至るまでの将軍を中心にした編年体実録)には詳細に記録されているが、右馬頭が下練馬村で療養したことは出ていない。しかし、「新編武蔵風土記稿」(天保元年上呈、徳川幕府による武蔵野国の官撰地誌)の下練馬村の項には、「屋敷跡 村の南にあり、右馬頭と称せるもの住すといふ、其姓氏及何人たる事を伝へず、今陸田となり御殿 表門 裏門の小名あり、礎石なと掘出す事ままありと云。」とある。

4.下練馬村内田家文書「御府内并村方旧記」の元禄10年のくだりには、「護国寺建つ、館林御殿、当村に之有り候を引き移し建つ」とある。これによれば、旧記の執筆者が生存していた頃には、綱吉が下練馬村に御殿を構えていたという伝聞があったことは確かである。

5.種苗研究家森健太郎は、「北豊島郡誌」に「蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め」とあるのは疑わしいということを、次の理由を挙げて説明している。「練馬大根が、尾張からとりよせた大根を宮重とすると、(練馬大根には)遺伝学上、どこかに宮重の遺伝現象が認められるはずであるが、(練馬大根には)なんら認められない。」(全日本種苗研究会機関紙 種苗指針第2号所収、括弧の部分は補記)

6.「武蔵野歴史地理」(高橋源一郎著 昭和3年刊)には、下練馬御殿の考証とともに、練馬大根の起源にふれ、「(北豊島郡誌の説は)甚だ信用し難い説である。或人は後人の偽作かとも云って居る。新編武蔵風土記稿には之に関することは少しも記していない。されば、この偽作も文化・文政以後最近のことであらうか。」と述べている。

篤農又六説

 この説の初見は「武蔵演路」(大橋方長著 安永9年)であり、次のように述べている。

 或云 上練馬村百姓又六といへる者 所を練馬第一とせしハ 元祖又六作り始しハ壱尺八寸□リ程在し也と云 今其子孫にて作る処は一尺五六寸も有べしといふ 然れども其味他より少しおとれりといふ 上練馬内 中ノ宮組 高松組 貫井組 田柄組と大村故に四に分つとぞ

 これが又六説の出処である。誠に素朴な所伝である。又六説は「武蔵演路」に出ているだけで、前掲「新編武蔵風土記稿」「北豊島郡誌」など、大正期までの文献には出ていない。

又六説の考察

1.種苗研究家森健太郎は、「幕府の小石川お薬園で、練馬大根の片親と認むべき北支那系の品種があり、これを叉六が入手して毎年栽培を続けているうちに、たまたま古い練馬大根に自然交雑し変異したものを発見し、(略)のちの練馬大根(練馬尻細)の原種となったものと推測される。年代は享保以後と思われる。」と解釈している。(括弧内は補記)
2.又六が実在していたことについては、重要な資料として又六庚申塔が現存することにより明らかである。この庚申塔の造立は享保2年(1717年)で、「武蔵演路」(1780年)に又六説が紹介される約60年も前のものである。庚申塔の又六と「武蔵演路」に登場する又六とは同一人物であるとは即断できないが、いずれも上練馬村の住人としていることは確かである。

 以上のことから、上練馬村中の宮(現春日町3・4丁目辺り)を練馬大根の発祥地としていることはうなずける。

両者の複合説

「北豊島郡総覧」(昭和7年刊 北豊島総覧社発行)の板橋区の巻には、綱吉説を挙げ、さらに「一説には上棟馬村の百姓叉六が作り始めたとあるが、大木氏の手から種を得て、又六が多量生産を始めたのだらうやうに思ふ。」とある。ここでは綱吉説を主にしながらも、下練馬村の大木金兵衛と上棟馬村の又六を結び付けている。
 さらに、昭和15年に建立した春日町の練馬大根碑(下記参照)では、「北豊島郡総覧」で述べている複合説をさらに変形し、「将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時 宮重の種子を尾張に取り 上練馬の百姓又六に与へて栽培せしむるに起ると伝ふ」とある。ここでは、将軍綱吉より直接上練馬村の百姓又六に宮重大根の種子が与えられたことになっている。将軍綱吉と又六を結び付けて光彩を添え、上練馬村が練馬大根の発生地であることを強調している。

 伝説とは、このように時代や地域により種々変化して語り継がれていくものである。変化することによって時代や地域に生きるものであるから、どちらが先かを争ったり、一方を否定したりすべきものではない。
 私たちは、いずれの伝説も練馬大根誕生の地が上・下練馬村の富士大山道沿いにあることを踏まえ、さらに史的な展望を試みたい。

練馬大根碑

東京府知事 川西實三
所在地 練馬区春日町4-16

練馬大根碑の画像

蔬菜は人生一日も欠き難き必須の食品なり特に大根は滋味豊潤にして栄養に秀て久しきに保ちて替る所なく煮沸干燥或は生食して各種の調理に適す若し夫れ沢庵漬に到りては通歳尽くるを知らず効用の甚大なる蔬菜の首位を占む今や声誉中外に高き我が練馬大根は由来甚だ久しく徳川五代将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時宮重の種子を尾張に取り上練馬の百姓又六に与へて栽培せしむるに起ると伝ふ文献散逸して拠るべきもの乏しと雖とも寛文中綱吉が再次練馬に来遊せしは史籍に載せられ当時の御殿阯なるもの今に存するを思へば伝説に基く所ありて直に斥くべきにあらず爾来地味に適して栽培に努めしより久からずして優秀なる品種を作り練馬大根の称を得て主要物産となり疾く寛政の頃には宮重を凌ぎて日本一の推賞を蒙るに至れり
抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当り豪族豊嶋景村来住せしより文明中太田道潅の政略に遭て亡ぶるまで世々其の一族の守る所として知られしも其の名は大根に依りて始て広く著はる而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し加ふるに沢庵漬として遥かに海外に輸出さる、より競ふて之栽培を計り傍近数里殊に盛なるものありと雖ども尚且つ足らざるを感ぜしむ 昭和七年十月東京市に編入の事あり都市計画の進程に伴ひて耕耘の地積徐に減退を告げ其の栽培の中心は傍近の地に移るの余儀なきを覚えしむ現時沢沢庵漬の年額八万余樽に達せるは最高潮と称すべきか 滋に光栄輝く皇妃二千六百年に当り奉賛の赤誠を捧げて崇高なる感激に浸ると共に東京練馬漬物組合一同相胥り地を相して各自壓石を供出して基壇に充て其の旨を石に刻して後昆に遺さんと欲す偶々其の記を予に嘱せらる丶も不文敢て当らず予や尾張の出にして居を此地に営み大根の由来と稍々相似たるものあるは多少の縁因なきにあらず奇と云ふベきか辞するに由なきより乃ち筆を呵して其の梗概を記す

 昭和十五年十一月
 柴田 常恵 撰
 練月山 亮通 書

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