練馬大根の最盛期
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更新日:2010年2月1日
1 明治後半の農業事情
沢庵(たくあん)漬の需要拡大
明治から大正にかけての、練馬大根に関する資料は思いのほか少ない。
古老の話では、日清戦争時より沢庵が軍隊に納められ、需要が増したという。明治27年(1894年)の時事新聞には、漬物が高騰し沢庵漬100樽57~58円だったものが100円近くになったとある。
また、「東京百年史」(昭和48年刊)によると明治36年(1903年)には1樽1円49銭だった沢庵が、日露戦争の始まった翌37年には1樽2円39銭となっている。日露戦争が始まると練馬の沢庵は大量に軍隊に納められ、価額も高騰したと考えられる。
以後、練馬の沢庵は、鉱山や炭坑、工場や船舶、学校や病院の寄宿舎用などに年を追って多量に出荷され、輸送の発達に伴い国内はもちろん国外にまで発送され、隆盛期を迎える。
明治30年代の大根作付と収支
資料の少ない明治30年代において、30年(1897年)3月発刊の「日本園芸会雑誌第80号」(明治22年創刊)は貴重であり、かつ練馬大根の栽培法を詳述した初出のものである。
作付や収支に関し、ほぼ次のような記載がある。
上練馬村、農家戸数485戸、畑地615町歩の内、大根60町歩余。下練馬村、農家戸数480戸、畑地545町歩内、大根53町歩余。
大根は全畑地の一割に相当するも、作付反別より生ずる産額は年々平均150万貫目、価格は殆んど1万9千円内外とす。之を他の麦類の産額に比すると殆んど二倍以上に居れり、此の地方農家に於ては大根作には重きを置く・・・
とあり、さらに1反歩についての生食用と沢庵漬との平年の価格比について
生食用19円20銭(100本60銭の割・3,200本代)。沢庵漬20円(1樽50銭の割・80本入)差引80銭。沢庵漬は利益多き如きも之れに要する人夫賃及び塩糠の代価を差し引くとき却て利益なし。・・・・左の収支計算は上練馬村大根栽培を以て有名なる某氏の調査に成るものなり。
とある。
各人夫代・肥料代・塩糠代・運送代をみると、肥料代が収入の3割に近く、塩糠代や人件費が各2割程度もかかっていて、この資料でみる限り収支の現状は厳しかったようである。
農事指導と品種改良
前述のような状況からであろうか、明治30年頃には各村に農会が結成され、農事指導が盛んに行われた。31年に府農会、33年には府立農事試験所が中野に開設されて、農業振興に大きな刺激となった。
一方、大根種子改良も盛んになった。この時代の練馬系改良種として、明治20年頃、秋づまりと交雑されたという愛知県新川町の堀江秋づまりや、同じころ中野区の石松 伝蔵作出の、尻細よりの綿種(和田種)がある。35年には、神奈川県三浦郡農会の鈴木 寿一により、地元の高円坊などと交雑して三浦大根が作り出された。
以上のように、明治後半は大根の栽培法の工夫や品種改良の工夫がみられる。そして大根は、沢庵の需要増加に伴い大量生産され、沢庵工場へと発達していく時代であった。
2 多量生産期を迎える
東京の人口集中と栽培地域の変化
大正期になって首都東京への人口集中は、明治よりさらに増えた。特に、第一次大戦後の資本主義の発達は、大都市に産業と人口を集中させた。大正9年(1920年)10月第1回の国勢調査では、東京市部で217万人、郡部と合わせて370余万人となり、明治15年(1882年)の約2.5倍増となっている(「東京百年史」による)。
練馬が大根の多量生産に主力を注ぐようになったのは、北豊島郡の東部地域の市街化、工場化に伴い、蔬菜供給地がさらに西部へ移行したためである。この間の事情を大正7年(1918年)刊の「北豊嶋郡誌」では次のように述べている。
近時帝都膨張の影響を受けて、市部接壌の地は多く市街に化し、南千住町並巣鴨町を首め、王子町、西巣鴨町、滝野川町、日暮里町、高田村、板橋町、岩渕町、三河島村及び尾久村等に在りては、農業年を逐うて衰退し、或は既に全く農作地を剰さヾるものあり、今や純然たる農村は郡の西部なる石神井、大泉、上・下練馬、赤塚、志、上板橋、中新井、長崎等の諸村に之を見るのみ
練馬地域は東京市という大消費地にいよいよ隣接することとなった。その結果、蔬菜の供給地としての役割が溢々高まったのは当然の結果であった。
大根は練馬
「北豊嶋郡誌」に上・下練馬村の農業について、
(上練馬村)本村は下練馬村と共に、天下に著れたる大根の産地として、全村殆ど之が耕作に従事す。(略)但帝都を距ることやや遠きを以て、蔬菜の搬出容易ならず、農家の努力実に意想の外に在り。・・・・
(下練馬村)本村総面積六百三十四町歩余の中耕地は五百十一町歩に達す、即ち全土の八割なり、また農作に従事するものは全村八百九十戸中につき七百戸以上を算す。実に農業は本村の主要生業なりとす、但地勢水田こ乏しく、耕地の九分は畑地なるを以て米麦の如き主要農産に重きを置く能はず、主として帝都の需要に応ずべく蔬菜栽培に全力を傾倒するに至れる、また自然の勢なりとす、(括弧内は補記)
と記されている。また、農産物作付順位でも大根が首位を占め、第二位の甘藷(かんしょ)の約三倍の作付面積となっている。
一方、石神井・大泉地区では、大正初期までは減少しながらも桑茶生産が続いていたが、遂に衰微して以西の地に移り、再び大根の生産が伸びてきた。大正4年(1915年)の「石神井村誌」の作付反別を見ると、大根は109町歩、収穫高163万貫、価額は約3万円となっている。「北豊嶋郡誌」には、大正7年当時豊島郡全域の大根作付は1,324町歩余、生産高1,987万貫と記されているので、これから推定すると、石神井村だけで郡内のほぼ8%の大根作付をしていたことになる。
販路の拡張
沢庵漬の就業季節は大根収穫とともに始まり、10月から12月に及ぶ。1樽の重量は約16貫ほどであるから、運搬に要する力は大変なもので、運搬機関の便・不便で生産地として伸びるかどうか密接な関係があった。
昭和32年刊「練馬区史」によると、大正期の様子について、
近年交通機関の開けし為、大に販路拡張せり。生産三万六千樽の中、村内の消費量は二千二百五十樽にして、残りの三万三千七百五十樽は内地においては秋田・宮城・新潟より、鳥取・岡山の諸県、海外においては清国及米国に輸出せらる。--下練馬村報告
以前は乾だいこんにて埼玉県川越町及所沢町方面へ主として販出せしも、近年に至り沢庵漬として、東京市及埼玉県へ輸出するもの多く、将来益々盛大となる見込なり。----大泉村報告
と記されている。区内の二村の報告が示すように、沢庵は、改善された道路や国鉄・私鉄の敷設などと相まって販路が拡大していったと考えられる。
ちなみに、大正3年(1914年)、東上鉄道(東武東上線)が池袋--川越間に開通。大正4年4月、武蔵野鉄道(西武池袋線)が開通。5月国鉄と連絡、6月川越鉄道と連絡。大正11年11月、池袋--所沢間が電化。さらに、昭和2年西武新宿線が開通した。練馬の大根や沢庵漬の出荷はいうまでもなく農業用の下肥の運搬も行い、この時期における練馬の農業生産を大きく進展させている。
大正末の沢庵生産量を知る記録として、昭和2年(1927年)の農林省農務局の「沢庵漬ニ関スル調査」がある。それによると
有名ナル東京沢庵ノ主産地ハ・・・・四郡一市二十四カ町村ニシテ、就中最モ盛ナル生産地ハ北豊島郡中新井、石神井、志村、上練馬、下練馬、赤塚、上板橋、豊玉郡野方、和田堀内、井荻、高井戸、中野ノ諸村ナリ(「練馬農業協同組合史」所収)
と記されている。そして同書は、沢庵漬の生産は年間60万樽を下らない、とも述べている。練馬大根の最盛期は、明治末より昭和初までの約25年間程度と考えられる。
最盛期の頃の天日干の様子
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