令和6年9月21日号(WEB版)「追悼 野見山暁治 野っ原との契約 」インタビュー全文
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更新日:2024年9月24日
ねりま区報令和6年9月21日号4・5面では、10月6日(日)から練馬区立美術館で行われる展覧会「追悼 野見山暁治 野っ原との契約」を特集しました。本ページでは、紙面で載せきれなかったインタビュー内容を掲載しています。展覧会の内容や、芸術家として、人としての野見山さんを深く知ることができます。ぜひ、紙面と併せてご覧ください。
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練馬区立美術館学芸員で展覧会を担当する木下紗耶子さんにインタビューしました
―展覧会の概要を教えてください
今回の展覧会は前期と後期に分かれていて、野見山先生(以下、先生)の生涯とリンクしています。前期は、先生が東京美術学校(現東京芸術大学)に入学してから、戦争を経験し、戦後フランスへ留学するまで。後期は、日本帰国後から晩年までに焦点を当てています。前期・後期を通して、野見山暁治という画家が形成され、充実し、飛躍していく姿をご覧いただけます。
木下紗耶子さん
―それではまず、前期の特徴を教えてください
前期は「模索の時期」と言いますか、先生がいろんな作風にトライしている時期です。技法や色調、描き方が大きく変わっていきます。太平洋戦争への出征やフランス留学という大きな転機の中で、以前までは描いていなかったような色彩やモチーフを取り入れ、作風が細かく展開していくところが特徴だと思います。
「自画像」昭和12年 油彩・板 当館蔵
「崖」昭和36年 油彩・キャンバス 当館蔵
―続いて、後期の特徴を教えてください
後期は、「自然現象に対する眼差しが深くなっていく時期」だと思います。元から自然風景が作品のモチーフとしてありましたが、それらを眼差す目線が大きなところから小さなところまで、かなり自在になっていきます。山にしても山と空の稜線を描いて、さらに木々があって葉っぱがあってと、遠景から見る景色と手元でスケッチする細かい線描が画面のなかで一致していく、そんな「ダイナミックかつ繊細」な作風が完成していくところが特徴だと思います。
「川」昭和63年 油彩・キャンバス 当館蔵
「目にあまる風景」平成8年 油彩・キャンバス 当館蔵
―展示する作品について伺います。練馬区立美術館では開館当初から野見山作品を収蔵されてきていますが、今年新たに収蔵された作品も展示されますか
そうですね。いわゆる絶筆(※)など、初公開となる作品もあります。前期・後期で各40点。合計で約80点を展示します。
※生涯の最後に描いた作品。
―絶筆の作品もさることながら、今回の展覧会の中で、これはぜひ観てほしいという作品はありますか
絞るのがなかなか難しいのですが…前期と後期で1つずつ挙げます。
前期からは「マドの肖像」です。昭和17年の作品で、太平洋戦争で旧満州への出征が迫っていた時期に描いた、妹・マドさん(本名・淑子)の肖像画です。本作は、後期の開放的なタッチからは意外なほどの暗さが漂います。出征が迫り、自分が描くべきものは何か。今後、絵を描くことができないかもしれない。そうした葛藤のなかで若き日の先生が描いた貴重な作品です。
後期からは「ある日」です。この作品は、福岡県糸島市にあるアトリエで先生が見られていた景色を踏襲している作品です。練馬のアトリエは、外の風景をあえて閉ざす建築になっているんですが、糸島のアトリエは海に向かってどんと開口部があって、開口部の中に海が見えて。その風景と先生のイマジネーションが合致した素晴らしい作品です。
「マドの肖像」昭和17年 油彩・キャンバス 当館蔵
「ある日」昭和57年 油彩・キャンバス 当館蔵
―練馬区にある自宅兼アトリエからインスピレーションを受けた作品はありますか?
それが、ズバリコレ!とお答えするのが難しいんです。練馬のアトリエは、先生が「箱がポンとあるような家を作ってくれ」とオーダーしたアトリエなんです。だだっ広いアトリエと少し上がったところにリビングがあって、端に階段があって。すごいシンプルな建築で、内的なものに集中できる空間になっています。そんな空間で実際にある景色を写実的に描くのではなくて、持ち込んだものを見つめ直して、新しい風景を生み出しながら描いていたようです。
―練馬のアトリエにそんな特徴があったんですね
そうですね。練馬も糸島も建築を担当したのは篠原一男さん(以下、篠原さん)で、住宅建築の大変著名な建築家です。篠原さんの建築自体が先生の制作を刺激して、絵画に発展していく。アトリエはそんな空間だったはずです。
―展覧会ではアトリエの紹介もされるとお伺いしました
そうなんです。アトリエの紹介は前期・後期を通してご覧いただけます。アトリエに残された制作の道具や愛用の品などを展示します。私も何回かアトリエに訪問させていただく機会があって、そこで(一財)野見山暁治財団の山口千里さんから、先生はこういうものを使ってドローイングしてたんだよとか、スケッチしてたんだよとか、いろんなエピソードをお伺いしながら展示物をピックアップしました。アトリエを再現する気持ちで準備したので、先生の制作に対するお考えとか、工夫とか、そういうものを感じ取っていただけると嬉しいです。
「野見山暁治の練馬のアトリエの風景」令和6年 撮影:名和真紀子
―最後に、今回の展覧会のサブタイトル「野っ原との契約」に込めた思いを教えてください
このタイトルは、先生の著書(『署名のない風景』、平凡社、平成9年)から引用しています。まず、「野っ原」という言葉は、先生が繰り返し使われていて「野っ原のようなアトリエがいいんだ」とおっしゃっています。これは、広い空間で開放感があるとか、風が吹き抜けるような空間を指していて、制作にあたって開放的な空間を確保したいという思いが込められています。先生自身、絵を描き始めたところが野っ原のような場所だったようで、周りに何もない開放的な空間で絵を描くことが先生の絵を描くことの根源にあります。
そして、野っ原で制作を続けて、作品がどんどん溜まっていく、その様を虫の脱皮のようだとおっしゃっています。つまり先生にとって作品は抜け殻のようなもので、それらが溜まっていくことは、自然の摂理としておかしいことなんだ。そういう意識を持たれていたみたいです。
また、先生は自然風景を描くなかで、自然が持つ悠久の時間の流れを知ります。自然が持つ悠久の時間と比べると、人間の営みなどすべての事象はちっぽけで風化している。そして、この世界からいなくなっていく。この自然とその他のギャップを踏まえながらも、ささやかな人間の営みとそのかけがえのなさを噛みしめて描き続けるんだという先生の決意を「契約」という言葉を使って表したいと思い、先生の言葉を引用しました。ぜひ、ご覧ください。
(一財)野見山暁治財団事務長で秘書も務めていた山口千里さんにインタビューしました
―先生とのご関係を教えてください
先生も私も福岡県飯塚市生まれなんです。そして後で分かったことだけど、先生と私は小学校からの同窓生で、高校では同じ美術部に所属していたんです。
山口千里さん
―同郷でいらしたんですね。どのような流れで秘書になられらたのでしょうか
私は、美術系じゃない女子大に進学したんですけど、どうしても絵を描きたくなって。それで銀座で初めて個展を開いたときに、先生の教え子の方が「先生に案内状を出してあげるよ」と言ってくださって。先生が80歳ぐらいだったかな。個展に来ていただきました。雨の中トレンチコートを着てフラっといらして、めちゃくちゃかっこよかったです。そのときに同郷であることを伝えると「あの街からよく絵を描く人が出てきたな」って喜んでいただいたのを覚えてます。
―素敵なご縁ですね。その後どうなったのでしょうか
それから少しして、平成15年に千代田区の東京国立近代美術館で先生の回顧展がありました。そんなときに電話がかかってきて。「良かったら牛乳を買ってきてくれないか」って言われたました。先生からそんなこと言われるの初めてだから飛んで行ったんです。そしたら、先生1人で風邪引いて寝ていらしたんです。たしかあの夏は冷夏だったんです。家事のお手伝いさんも1週間に1回掃除に来るレベルで、食事もままならなくて。朝は必ずカフェオレを飲まれるんだけど牛乳がなかった。それで牛乳を買ってきてくれって言われたわけです。そして、もし時間があったら何か作っていってくれないかって言われて、確かうどんか何かを作ったことも覚えています。それ以降、裏方として先生をサポートするようになりました。
―秘書になる前から先生をサポートされていたんですね
それから色々あって。回顧展とかでとても忙しくて、先生、ガリガリに痩せられてて。秘書を雇わなきゃ1人では無理ですよって言ったときがあったんです。そしたら先生が「千里、
―先生のお人柄についても教えてください
とても、楽しいおちゃめな方。そして決して威張らない。だから私も怒られたことがなくて、むしろ私の方が言葉が荒っぽいんです。身支度とかやらなきゃいけないことを急かすと「100歳になってみろ!」と笑いながら言い返されたことを覚えています。
野見山暁治さん(撮影:川津英夫)
節分に豆まきをする様子
―ユーモアにあふれた方だったんですね。何か違った一面もお持ちでしたか
先生は、太平洋戦争を経験されているんですけど、すごく楽しいときにフッと亡くなった旧友や無言館(※)に入っている人たちを思い出されていました。自分がすごく幸せなときに、先に逝った旧友に対してすまないという気持ちになって。生き残ったことの申し訳なさみたいな意識がありましたね。
※野見山さんが設立に尽力した、長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館。
―戦争のご経験が、先生の心にずっと残っていたんですね
そうですね。戦後、フランス留学の際に乗船したラ・マルセイエーズ号がスエズ運河から地中海に入り、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸が見えたときに、亡くなった旧友たちの顔がワアっと立ち上がってきて、本当に涙が止まらなかったとおっしゃっていました。当時のフランスは旧友みんなにとっての憧れ。戦前の日本って今のような公立の美術館がないんです。先生たちは油絵科にいながらヨーロッパ人の書いた本物の油絵を見たことがなかった。だから必ずフランスへ行って本物の絵や油絵の図版にあるような分厚い石の壁の家を見たかったそうです。
―次に先生と練馬区の関わりをお伺いします。どうして練馬区に自宅兼アトリエを構えられたのでしょうか
先生は、戦後まもなく結婚して、世田谷区の東玉川で暮らしていました。そこからフランスへ留学されましたよね。その後、妹のマドさん(本名・淑子)と夫で作家の田中小実昌さん夫婦がそこに住んでいました。先生は12年もの間フランスにいたので、戻ってきたときには妹夫婦に子供が2人いらして、創作に手狭になったので引っ越すことを決めたんです。そのとき、この土地がたまたま空いていて、隣も空いていたので、妹夫婦も隣で住み始めたんです。
―練馬区とご縁があったんですね
体育館みたいな家であればいいとおっしゃっていましたね。一隅で食事して、一隅で絵を描いて、一隅で寝てみたいなね。そしたら、たまたまフランスで出会った人のお弟子さんから紹介されて建築家の篠原さんに会うわけです。篠原さんも建築家として、絵描きのアトリエを作るのは面白かったみたいですね。アトリエが完成したときは先生はもう大喜びでした。ところが、お父様が福岡県からいらして、最初に見たときは、駐車場だと思われたみたいでお向かいのお宅へ行かれたそうです(笑)お父様にしてみれば、そんな風に見えたみたいなんだけど先生にとっては大好きな空間でした。糸島のアトリエも篠原さんに作ってもらいました。同じ芸術家同士で響き合うところがあったのでしょう。
「野見山暁治の練馬のアトリエの風景」令和6年 撮影:名和真紀子
―特別な空間だったんですね。練馬区への愛着などはありましたか
昼間に絵を描いて、夕方から近所の高稲荷公園や石神井川沿いを散歩していました。石神井川沿いが桜シーズンのときは、どんどんどんどん下っていって平和台まで行ったこともありました。その時に何をしているかというと、小さなスケッチブックを携えて、アスファルトの不思議な形のシミとか、気になるものを書き留めて、絵のモチーフにしていました。
高稲荷公園
―最後に、練馬区や今後リニューアルを控える練馬区立美術館に対して、何か思い入れはあったでしょうか
まず、令和3年に区民の皆さんと創作した大会応援アート「こんな風の話」。これは、先生が長年にわたって暮らした練馬に残した、区民への遺言のようなものだと思っています。
また先生は、自分の名前を冠した美術館は作りたくなかったんです。ひとつの美術館じゃなくて、日本中の美術館で自分の作品を見てもらいたいという思いがあったんでしょうね。だから、北は北海道、南は鹿児島県枕崎市まで作品を寄贈しています。そして、先生は寄贈の軸を本州は練馬区立美術館、九州は福岡県立美術館に決めていました。だから、練馬区立美術館にはたくさんの先生の作品や資料があります。これからも野見山作品をはじめとした多くの美術作品を、展覧会などの形で区民の方に届けてほしいです。
先生もリニューアルを楽しみにしていた練馬区立美術館。私も今から完成が楽しみです。
東京2020オリンピック・パラリンピック応援アート「こんな風の話」
リニューアル後の美術館・図書館のイメージ
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